プロフィール

はじめまして。

心理カウンセラー  広ナオミ です

プロフィールをお読みいただきありがとうございます。

不登校 引きこもり 

不安神経症 発達障害の不安

心の奥底にある気持ちを引き出すことで、長く閉ざされていたお子さんのこころが解けはじめ 

安心と自信のエネルギーが蘇り

 親子の絆を取り戻す

     

私は、10年以上心理療法を学び実践を重ね、25年以上看護師として精神科領域で、不登校や引きこもり、外出できない方のサポ-トをはじめ、うつや躁うつ、パニック、不安神経症、摂食障害、強迫性障害などの方々を支えて参りました。

様々な生きづらさの根源には、環境と共に、親子関係が影響しています。人間には親の居ない人はいません。皆、親からの影響を受けて大きくなっているのです。

「なんとかしたい!」そう思った時から、解決の道筋は開かれています。できれば、早くその道筋をハッキリと見つけたいですよね。それには、一緒に歩み、ある時には進むべき方法を示唆してくれる、専門家であるカウンセラーの存在が必要なのです。 

私のカウンセリングでは、90日で親子関係が改善する具体的な方法をお伝えすることができます。また、

🔶お母さん自身が安心感を生み出せるワーク

🔶イライラ、不安を吹き飛ばすワーク

🔶自己肯定感を高めるワーク  などを提供しており、

親子関係アダルトチルドレン愛着障害夫婦関係離婚相談 このような問題で悩んでおられる方がご相談に来られます。ご興味ある方は、ぜひ、お試しカウンセリングへお越しください。

 専門的なカウンセリングを受ける場合には、相性がとても大切になってきます。

カウンセリングを受けようかどうかを迷った時、カウンセラー選びはとても重要です。

✅自分の気持ちを理解し、寄り添ってくれると思えるカウンセラーであるかどうか。

✅安心して自分の気持ちを話しをしたり、質問できそうなカウンセラーかどうか。

✅必要な時に専門的な立場から的確な意見やアドバイスが貰えるかどうか。

これらを満たしているかどうかが重要なポイントとなります。

ですので、少しでもご理解いただけるように私の生い立ちや経歴について書いています。

少し長くなりますが、どうぞご覧ください。

幼少期 母との二人暮らし

物心ついた時から母と私のふたり暮らし。月に1〜2度程、夜中にやって来ては母や私に偉そうにする 父 が私は好きではありませんでした。父には他に家庭がありました。親兄弟から、絶縁の状態で私を生んだこと、苦労した話を何度も聞かせてくれました。有難いと思う気持ちもありましたが、「他の子の家にはお父さんが居ていいなあ。」と思っていました。

幼稚園~小学生の頃 父親の存在が無く寂しい

当たり前かもしれませんが、父が運動会や参観に学校に来た事など無く、遊園地などに出かけた記憶もありません。父とは、ちゃんと話をしたことがあったでしょうか。いつも夜中に来て、朝、布団でまだ寝ている父に「行って来ます」と言わされる…記憶の中では父とは、それだけでした。抱きしめてくれたり、優しい言葉をかけてくれるような父では無かった。断片的な記憶で、父の身勝手のせいで夜中に母が泣いているのが私は、嫌で仕方ありませんでした。私は、父のはっきりとした記憶がありません。思い出せないのです。

’私も皆のようにどうして普通の家に生まれてこなかったのだろう’ いつもそんな風に思っていました。「生まれてきてよかったやろ!」そう言われる母に私は頷くことしかできませんでした。

言いたいことを飲み込んでしまう アダルトチルドレン

私を’しっかり育てないといけない’そう考えていたのでしょうし、世間体もあったのだと思います。覚えているのは、母が怖かったこと。「こうしなさい!」「そうしてはダメ!」「どうしてこうしないの?」「お前のためを思って言っている」いつもそう言われ続けてきました。私は母言うとおりにするしかありませんでした。兄妹もおらず、母とふたりきり。母は絶対な存在でした。知らない間に母の機嫌をみて、顔色を伺って生活をしていたと後々気が付きましたが、その時は、それが当たり前だと思って生活をしていました。ほんとうに強い母でした。

ピアノのレッスン 私は大嫌いだった

母は私を父の本宅の娘同様にピアノを習わせて、「音楽大学に行かせたい」とよく言っていました。幼稚園の頃は母の影響を受け「大きくなったらピアノの先生になりたい」と書いた文章が写真と共に残っています。でも私はピアノは本当は好きでは無かったのです。練習もさぼりがちでしたが、高校に進む頃までは、ずっとそう言われていたように思います。私は勇気を振り絞って「やめたい。嫌いやねん。」と言ったことがありましたが、止めさせてはもらえませんでした。言っても仕方ないと諦めるしかありませんでした。その後、嫌々ながら、ピアノのレッスンは続いていました。

小学5年から父の会社が倒産して、ひとりでお留守番

小学5年生の頃だったと思います。元々、月に1度程度しか家に来なかった父でしたが、父の会社が倒産して生活費を貰うことが出来なくなったのです。母は、朝早くからと昼に一旦帰って再び夕方から夜遅くまで私を育てる為に働かねば生活が出来なくなりました。母の居ない間、仕方ないとわかっていても1人でのお留守番は、とても寂しい時間でした。辛い感覚だけは、残っているのです。

泣いている私を見て’不甲斐ない’と叱る母

その頃学校での私は、相手に自分が嫌な事を嫌と言えず、物が無くなってたり、いじわるをされて泣いて帰ることも多かったのです。何があったのかを仕事に出ていく迄の慌ただしくしている母に、問い詰められていつも言い訳をしていました。「不甲斐ない」と叱られると言う状態が続いていました。気の強い母でしたから、気の弱い私を不甲斐なく思っていたのだと思います。「しっかりしなさい!」と手を挙げられたりすることもしばしばでした。

母は忙しい。だから、いい子でいなければならなかった

母もきっと肉体的にも精神的にも辛かったのでしょう。そのことは、子どもの私でも充分にわかっていました。だからこそ、私はいつも母の前ではいい子でなければならなかったのです。もちろん、その頃の私は、’母の想いや頑張りに応えなければいけない’そんな思いを強く抱いていたように思います。留守番をしながら、ピアノの練習もしておくように言われましたがなんとも気の入らない練習でした。嫌々やる練習は全く身にならないものでした。

中学時代 授業に集中できない日々~「頑張ろうとは裏腹に」

「私も頑張ろう」そんな思いとは裏腹に学校では、授業に集中できず、いつも自分の気がかりに注意をそがれたり周りの人に話しかけては、先生にしかられたりすることが多かったように思います。ですが、成績はさほど悪く無く、不思議ですが、成績に関しては母はそれほど厳しくはありませんでした。ただ、ピアノの教室は止めさせてもらえませんでした。中学になっても私はピアノが大嫌いでした。それでも練習をしないといけませんでした。小さい頃はピアノに紐で縛られたり、、、。そんな状態も中学校を転校することになる2年生の頃には少し落ち着いてきました。

朝、夜掛け持ちで働いていた母が小さな店を開くことになり、同じ市内でしたが転校することになりました。下町から少し田舎に引っ越したのもあって、新しい環境に馴染まなくてはいけないハードルが増えました。新しい学校では話しかけてくれる子たちもいて、少しずつ馴染んでいくことができました。中学生時代はあまり勉強をしていませんでした。

高校時代 好きだと言われる人を好きになる…

それでも特に悪い成績でも無く、公立高校に進学。高校生時代は、時々サボったり遅刻しながらも何とか通学しておりました。 この年頃は恋に恋するお年頃….自分のことを認めてくれる同級生とお付き合いするようになって、一緒に登下校する…放課後を一緒に過ごす…。心の中の隙間を埋めるかのように、帰って1人でいるのが寂しかったのかもしれません。

当然、勉強にもあまり身が入らない生活を送っていました。母はその頃、生活の為仕事が忙しく、私に注意を向けてばかりもいられなくなっていたようでピアノに関しても何も言わなくなりました。私は、黙って練習に行かなくなりました。

その時には、もうピアノの先生になれるはずもないし、お金も無かったので、母は、すっかり諦めていたのかもしれません。何も言いださない母に自分から、ピアノの話は持ち出さずに何とかなるようにと願っていました。高校で進路の話も出始めた頃、私は、看護師を目指そうと思っていたのです。

専門学校へ「 関わったひとの心に残りたい!」その想いで看護師に

自活しようと思っていたこともあり、働きながら通える看護師の道を選びました。とにかく、人の為になりたい、人の心に残るような人になりたいと言う思いを強く抱くようになりました。困っている人の役に立ちたい、自分の存在意義を見出したい、そんな思いが自分の中で大きくなっていました。

大学病院に就職~結婚~出産

正看護師の資格を取得してからは、大学病院で勤務しました。最先端の医療が目指せると思ったからです。ですが、研究と言う要素を含んでいる大学病院は、私にとっては辛くいたたまれない世界でした。

「自分の目指していたものと違う」そう思い、悩み出した頃に同じ職場の医師である主人と出会いました。その場から逃げ出したい、そんな気持ちもあったし、医師と結婚すると言うことに当時はステータスを感じていたとも思います。自分を好きと言ってくれるということがうれしく、知り合って1年半で結婚しました。

27歳出産 宝物ができました!

 そしてすぐ一人娘を授かりました。27歳の時でした。

「人の役に立ちたい!」と、看護師になった私でしたが、娘を母乳で育てていたこともあり、乳離れしないのを理由に仕事を辞めることにしました。娘が小さいうちは自分の手で育てたいという育児に対する望みもありました。

娘はとても可愛く、愛おしく、本当に目に入れても痛くない存在でした。毎日べったりと娘と2人で過ごしていました。幼いさい頃から色々なことをやらせてみることで、無理なく優秀な子になるという、いわゆる早期教育というものを始めたのです。

私も毒親に⁉️まったく気が付かず母と同じことを…

 先に書いたように私が嫌で嫌で仕方がなかったことを、、、。母にされて嫌だったことを私は、同じように娘にしようとしていました。いえ、今思うと母よりも酷かったかもしれません。

娘のためにと、早くからいろいろな言葉を教えたり、読み書きや計算なども習わせたり、ピアノやバレエ、スイングなどにもいかせたりしていました。娘ができる人間になるようにと、「娘の為にできることをできる限りやってあげたい」と強く思うようになっていたのです。

人よりもできることが何よりもうれしかったし、いつのまにか、’できる子ども’という評価が自分自身の評価のように感じていたと思います。

文字通り教育ママに知らぬ間になっていたのです。それがその時にはまったく気が付かなかったのです。

押しつけの愛情が娘の異変に

「この子がかわいい」 「将来を苦労なく生きて欲しい」「子どもの能力を早くから開花させてあげたい」こんな気持ちが当時の私を支配していました。

1日は娘の幼児教育中心で回っていました。娘は、嫌だとは言いませんでした。でも、気がついた時には、吃音障害になっていました。羽ばたくように手でリズムをとらなければ、自分の名前さえ言えないようになっていたのです。

なぜ?自分の娘が?いつから?ずっと一緒にいたのに…。どうしたらいいの?疑問と不安とどうすればいいのか?がずっと頭の中でぐるぐると渦巻いていました。本を読んだり、調べたり、色々な人に尋ねたり、、、。皆から言われたり、思い余って相談をした先生からは、「早くからお母さんが多くを望むから、、、。」「お母さんが急ぎ過ぎるから、、、。」「お母さんの気持ちが子どもに影響するから、ゆっくりした気持ちで関わるように。」と言われました。

え?私?私のせい?それでもまだ私のせいだとは思いたくありませんでした。

こんな親ではいけない!

あれもこれも良かれと思ってやってきたことが、本当は娘にとってはマイナスしかなかったことにやっと気づくことができました。ほんとうは、娘は嫌だったのですね。私と同じように言えなかったのですね。本当に申し訳ないと思いました。たくさんたくさん謝りました。

それからは、たくさんの習い事からは解放し、できるだけゆっくり話しかけるように心がけていきました。時間がかかりましたが、少しずつ少しずつ…娘は普通に話せるようになっていきました。

訪問する仕事を手伝ってくれない?と言われて

病院時代の先輩が私に連絡をくれました。このままではいけない!自分も変わらなければ…そう思っていた矢先のお話しでしたので、ほんとうにありがたく、「何かとっかかりになるかも知れない」とお引き受けしました。娘との距離をとらなくては!そう思っていた私が34歳の時でした。

在宅では、病気や障害がありながら自宅で自分らしく生きる!ご家族もまた、それを支えて生き抜く!そんな生き様を目の当たりにし、病院とは違うやりがいを感じました。

 私は仕事が忙しく疲れて娘にかまってやれないことが増えたのですが、むしろそれで、親子の関係は、バランスが取れるようになっていきました。

訪問看護ではほんとうに色々な方々がおられます。年老いて、病気で動けなくなってしまった人、歳若くして癌や難病になってしまった方…からだでなく心の病を抱えていて自宅からでられない…そんな方々に訪問し必要な支援を行います。

訪問看護では、家族関係の大切さを突き付けられる

在宅療養を左右するのは、まさしく家族関係です。「家で療養したい」そう願っても家族のサポ-ト無くしては自宅で過ごすことはできません。多くの利用者様との関わりを通して、多くの気づきと学びを得ることができました。

その中では自分の課題であった親子関係を突きつけられる場面が多々ありました。

私だったら、父に母にどう関われるのか。また、彼ら彼女たちが自分の子どもだったら、どう関わって行くのか。その問題に直面した時、私は支援が出来なくなってしまいました。訪問先のご家族の想いを聴くだけで、心が痛み揺れて心の距離を一定に保つことが出来なくなっていったのです。

すっかり忘れていたはずの父の顔が頭から離れなくなり、鏡の中の自分の顔に父をみるようになったのです。もちろん母との関係もそうでしたし、夫との関係もうまくいくはずもありませんでした。

カウンセリングに救われる~自分の問題を解決しないと進めない

それから私自身もカウンセリングを受け、心理学の勉強を始め、多くの講義、セミナーに参加しました。自分自身がアダルトチルドレンでしかも愛着障害であることがわかりました。

家族との関係で自分が出せず、嫌われるのではないかと不安が強くなったり、「自分なんて、、、。」といつも考えているかと思えば、ある時は諦めが早かったり、、、。そんななんともしがたい生きづらさを抱えていたのはそういうことだったのかとわかり、たくさんの涙と共に、心の中にあったつかえがすこしずつ溶けていく感じでした。

気づくという事はこんなに力を持つものなのかとどれほど有難いと思ったことでしょう。

学びとともに自分自身を受け入れ、そして自分の傍に居てくれる人をほんとうに感謝したいと思えるようになりました。でもその前に夫との関係は終わってしまいましたが、、、。

カウンセリングの重要性をどうしても伝えたい

自分自身もカウンセリングや心理の学びで癒されながら、以前にも増して仕事に対する思いも強くなっていきました。

「引きこもっている息子をなんとかしたい。」そんなご依頼を受けて訪問することも度々でした。いじめをきっかけに学校へ行けなくなってしまった。ご両親が相談にみえて訪問させていただくこともありました。また引きこもりの方の家族会や相談会をなんとか困っている方々の力になりたいと相談を受けてきました。

強迫性障害の方や摂食障害の方もおられました、自分だけじゃない!根底には、やはりそれぞれの親子関係があることを痛感しました。

もっと多くの方のチカラになりたい❗️

そう強い思いが自分の中に突き上げてきた時、今まで以上に心理学の必要性を感じました。そして学んだことを少しでも提供できる場を求めて、訪問看護だけで無く、活動の場を通信高校の相談員、中学校の適応教室、少年院の職業相談カウンセラーなど、子どもの心理に関わる仕事を探して関わって来ました。

その中ではっきりと確信したことがあります。

子ども1人ひとりは、良くなりたいと願っている。変われる力を秘めている。

それがこれからを大きく左右すると言うことです。

条件付きの愛情で無く、絶対的な愛情!心の底から、この子が居てくれて良かったと、あなたが居てくれて本当にしあわせだと思えることが、最も大切なことなのです!

そして、時に迷う、間違える人間だもの、、、。

そんなときに相談できる相手が必要なのです。それは誰でも良い訳では決してありません!それが、少し先を行くカウンセラーの存在なのです。

行くべき方向を指し示し伴奏してくれる それがカウンセラーの役割りだと考えています。

私のカウンセリングでは、90日で親子関係が改善する具体的な方法をお伝えすることができます。また、

🔶お母さん自身が安心感を生み出せるワーク

🔶イライラ、不安を吹き飛ばすワーク

🔶自己肯定感を高めるワーク  などを提供しており、

親子関係アダルトチルドレン愛着障害夫婦関係離婚相談 このような問題で悩んでおられる方がご相談に来られます。ご興味ある方は、ぜひ、お試しカウンセリングへお越しください。